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私の空の色

更新日:2024年12月30日







今回は自分が絵に対する想いやそして、わたしの考えや人生など少しですが

綴らせていただきます。



決して悲劇のヒロインとか構ってちゃんとかでは無くてただの自己満足です。

ただの自己満足です。

長くなりますが、読んでくださったら、嬉しいです。



わたしは小学生から、広島、長崎に興味があり、図書館で本を漁り、

現地にも何回も行きましたが、何も出来ない自分に絶望感を抱いていました。

中学は不登校でしたが、その時に初めて、

ピカソのゲルニカを描き絵に想いを載せることが出来ることを学びました。

テストだけは受けていたので行きたい高校には行けませんでしたが、

大きな図書館が有ったので、そこで色んな知識を知ることが出来たので、

それは凄く有り難いことでした。

割愛しますが、わたしに取り、

高校を卒業した後に出逢った恩師との学生生活はとても楽しい日々で時々、

思い出しては孤独を救ってくれます。

先生と出逢えて、絵を教えて頂き、

本当に先生のおかげで今に繋がっています。


父を20歳で亡くしましたが、9時間の手術の後に父は2週間、

生き延びて亡くなりました。今思うと、一生分の愛情を貰い残された

わたし達に心を整理する時間だったのでは無いかと感じます。

しかし父が亡くなった2週間後、親友が中絶をしました。

まだ若かったわたしはそれを許すことが出来ず、ひとりでは泣いて、

普段通りに接していました。

でも学校からたまたま夕方に帰る日があり、

見る世界は灰色。全て灰色。と思いながら、窓を見てたら、

いきなりピカッと空が光って、そこには言い表せない位の美しい夕陽がありました。

そこで感覚的にですが、父さんだ。と感じ、

感謝の想いが湧いて来て、電車の中で大泣きしました。


そこでのわたしの空の存在が「命」に変わりました。


父の葬式は酷いものでした。

当時のお付き合いが有った方々からは

「葬式行けないんだ。うまい棒あげるから許して」など言う方もいました。

二股を掛けられた方がそちらの女の方と結婚したこともありました。

その空の存在が「命」に変わった時に色んな本を読んだり、

死後の世界を考えたり、ドキュメンタリーを見たり、

映画や音楽に沢山触れて来ました。


会社に無事に入りましたが、同僚から毎日「死ね」「死ね」と言われながら

背景を描いて来ました。

彼女には言うのが当たり前だったみたいですが裏で下手だ。

下手だ。とも何度も言われました。

最終的には「バイクで事故って死ね」などの暴言を吐かれ、心を壊してました。

会社は結局、辞めて実家に戻って来ましたが、

闘病生活は悲惨なものでした。自殺未遂をしたり、家族に少しですが、

暴力を振るったこともありました。


当時の医者は薬を沢山出す医者で、家族に迷惑をかけたく無いから、

眠剤を飲んで眠り続けたり薬物中毒になったりして寝た切りでした。

夜中の公園で包丁を喉に当てて、2時間雨の中、泣いたりしていました。

夜中に走り回って、大きな声で叫んだり。


その頃、同じ薬物中毒で共に闘病していた知人が自殺をしました。


でもその中でも派遣や絵を描きながら、過ごして来ました。

わたしは叔母がいるのですが、

叔母は美術館で沢山の絵を見てるから、

わたしは眼が肥えてると言って、わたしの絵を見せると、

サキは技術はあるけど、わたしには何も伝わらない。と言われました。

その時に初めて、絵を描くのを辞めようと思いましたが、

空の存在が蘇り、

自分の絵の原点を振り返ってみる事にしました。


その時は障害も落ち着いて、派遣に沢山、行けるようになりましたが、

やはり偶に発作が出でしまう時もありましたが、

誰も助けてくれる人は居なくて、誰もいない路上に入りながら、

紙袋を持って必死になって耐えていました。

そんな事を繰り返していたら

祖母の事を思い出しました。


当時、祖母は認知症で千葉の特養に入院してたのですが、

毎月、お見舞いに行く事を決めました。

有り難いことに看取ることも出来て、感謝の想いが湧いて来ました。

自分の探していたのは本当にシンプルな答えでした



じいちゃんがいて、ばあちゃんがいて、


父さんがいて、母さんがいて、姉さんがいて、妹がいて、


わたしがいる。


わたしに取っての空はいつもとても優しかったです。








生まれてくるって奇跡だし、本当に命って尊いものだと今も強く感じています。

その答えの後に家族の絵を水彩で描きました。

母は涙を流して喜んでくれました。

その絵を叔母に母が見せたら、サキはこういう絵も描けるようになったのねと

いきなり叔母から依頼が来ました。

はっきり言って受けたくは無かったですが、

何かがまた優しい空色になるかもと思い、

水彩で必死に描いて送りましたが、叔母はわたしの絵はこんなのではない。

酷い出来だと言いながら、わたしの描いた絵を送り返して来ました。

そこで守ってくれたのが母でした。

母は本来のサキのやりたかったことに、集中していいよ。と言ってくれて、

その時に知り合った仲間と動画を作り、

広島で流しました。そこで広島で15歳の岡山から来た修学旅行の女の子が

「持って行きますね。わたし達の平和を」と描いてくれました。










PMDDになっても絵を描き、お金を貯めながら、広島、長崎で路上に励みました。

長崎で穴弘法寺の副住職さんが



「どんな世でも生きていられるだけで幸せです」と書いてくださいました。










その後はPMDDと闘いながらも絵のお仕事をして、

路上に出ることが難しい身体になりました。

でもやっぱり声の活動は、ネットでも精力的に行っていました。


本来のわたしに戻り、母も家族もとても喜んでくれました。

でもやはり、PMDDが悪化して、

また家族に迷惑をかけることになり、家族がバラバラになりました。

母も泣いて怒りを示すことが多くなって来て、

昨年で治療に専念する為に声の活動は終わりにしました。



でも7年前に制作した原爆の動画の「horizon blue」に声を入れて貰えて、

わたしは後世に憎しみは要らないと思っているし、

今、生まれて来る命が楽しく幸せな時代になる為に

最終的な制作に取り組んでおります。


夏の黒い闇を青空に変えて後世に届ける。

それが今のわたしの夢であり、目標でもあります。

時間が経ち、分かり合える事がありました。

母はPMDDの対象方法などを話し合ったら、喜んで泣いてくれたし、

妹は難病を2つ持っていますが、その頑張りが実り、

毎月、難病検査があるのですが、数値が凄く良いと先生から褒められて、

頑張って化粧品の会社で正社員で働いていて、

そこでお客様の満足がいちばん多いとして表彰されました。

それをわたしにいちばんに教えてくれて、涙が出る程、嬉しかったです。


家族で一緒にご飯を食べる事も多くなり、今になり、分かったことが

本当に沢山ありました。

わたしは家族に迷惑をかけ続けて来ました。

そのことの罪悪感を話したら、家族は気にしない過去のこと。

と笑いながら、お寿司を食べました。


わたしの空色はやはり、優しかったです。


だから、今のわたしには空の存在は、「命」「優しさ」「希望」で成り立っています。

昨年、寝込んでいたら、体重が7キロも減ってしまいました。

結果、13キロも体重は落ちてしまい病気も5つに増えてしまいました。

PMDD。月経困難症。難病のシェーグレン症候群。うつ病。シュモール結節。

1人で対処するのは本当に大変ですが、その中でも救われたのが、音楽でした。

友でした。現在も自分で出来ない事は沢山有りますが、

少しずつですが自分でやれる事はやっています。治療も頑張っております。

わたしに絵を描く技術が無ければわたしはただの何もない人間で

終わってたと強く感じておりますが、

絵を描いて来て、本当に救われた部分が沢山ありました。



この技術をくれた、父。教えてくださった恩師。

昔から応援して頂いている方々。制作仲間。

そしてどんな時もわたしを信じていてくれた母。



本当にありがとうございます。まだまだ未熟な面も

沢山ありますが本当にめちゃくちゃ精神が弱くなることも有りますが、

これからも個展もその後も精進をして行きたいと思いますので

どうぞこれからもよろしくお願いいたします。


感謝を込めて。

本当にありがとうございます。



◇路上の声◇

路上の声(全体公開)| 瀬名 サキ|pixivFANBOX2013年3月からまた路上の声を集め始めました。 仕事をしながらだったので、回数は多くはない方ですが、 3年間で集まった声as-ymayc.fanbox.cc



2024年9月21日  瀬名サキ





 
 
 

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